アンダーバーの文字はクリックすると意味がわかるようになっています。
安芸
国庁屋敷・
厳島国府上卿屋敷鎮座
田所明神社[
厳島遙拝所(
国庁神社・
槻瀬明神)・大黒社三社を
合祀]略記
国立公文書館内閣文庫『
楓軒文書纂』安芸厳島神社
定勅使祭主田所元教主税家文書所収
国立公文書館内閣文庫『
楓軒文書纂』安芸厳島神社
定勅使祭主田所元俊伊織家文書所収
広島県重要文化財紙本墨書田所文書
[
安芸国衙領注進状一巻(縦28㌢・横14㍍)・
沙弥譲状一巻(縦28㌢・横12㍍)]所蔵
御神水・田所名水
(旧厚生省の「おいしい水の要件」と広島県環境保健協会の一般項目検査に適合。県内唯一の銘水。)
主祭神
飽速玉命 相殿
天湯津彦命(
安芸津彦命・
安芸都彦命)
槻瀬明神(宮内庁書陵部蔵「安芸国神名帳」には正二位五前の位階)
阿岐国造家と伝えられる
厳島神社神主家(佐伯氏)及び田所氏(佐伯氏)は、阿岐国第一の旧家である。其の祖先は遠く
天湯津彦命(
安芸津彦命・
安芸都彦命)(
多家神社・
埃宮の主祭神・安芸国の開祖神)及びその五世の孫
阿岐国造・
飽速玉命(速谷神社の主祭神
飽速玉男命)と伝えられる。東広島市西条の三ッ城古墳は
国造氏族の墓とされる。大化の改新以後、
国造を
廃せられ、佐伯氏(田所氏)は佐伯郡の大領として譜代の
郡司を世襲した。佐伯氏(田所氏)は、今の広島市佐伯区三宅町の田所屋敷に住み佐伯姓を名のった。後に府中に出て、有力在庁官人[惣大判官代・
大椽職等]となる。一族は
厳島神社神主にもなっている。
『田所累系』によると田所氏は「佐伯」を本姓とし、姓を佐伯の他、平、三宅、田所、藤原、源とも称した。
氏は
大化の改新以前の制度や平安期の職名から田所氏とした。現在まで、本姓は旧来の佐伯を踏襲しつつ、氏は田所を踏襲している。佐伯(田所)資隆は平安時代の初め頃(900±年)、今の広島市佐伯区三宅町の田所屋敷から
国府府中の国庁屋敷に赴任した。以後
国府の有力在庁官人として世襲した。田所氏が世襲した主な職名は、
佐西四度使・安芸国執事職・
三善(荘園を経営する役職名)・大帳所惣大判官代・田所執事
兄部職・田所文書執行職・田所惣大判官代田所兄部職・田所惣大判官代田所執事職・田所惣大判官田所書生職・田所惣大判官代・田所文書職。治承3年(1179)以降、安芸国の国祭である
初申神事において、当初京都より
勅使が遣わされた。『田所累系』によると田所信高は建武2年(1335)、父田所信兼より田所惣判官代新左衛門尉平朝臣に任ぜられた。
『広島県史』古代中世資料編Ⅳ藤田精一氏旧蔵文書(261頁)常陸親王令旨寫によると
安芸国河戸村國衙分
一分二分任先例可
レ令
二領知旨、常陸親王ヨリ令旨頂載、永和五年(1379)2月25日、厳島社御勅使装束破損ニ付
為二料足一当国入野郷
一町之内三段、黒瀬村二段、以上五段拝受之免状アリ
以上により、厳島神社両度初申之御神事
奉幣使祭主兼務。
田所惣大判官代新左衛門尉兼
奉幣使田所資賢七男・
石井七郎末忠公は、後醍醐天皇より
綸旨を
賜り、
建武の新政を成す。延元元年(1336年)
湊川の戦いで
楠正成公とともに
石井七郎末忠公は忠死された。
貞治5年、有力在庁官人の父
信高より
田所惣代判官代太郎左右衛門尉を譲り受け、『田所累系』によると
至徳2年(1385)十月朔日、
被レ定二厳島上卿役一御証文拝載ス、御装束モ拝載ス。
正三位上安芸国厳島神社
初申御神事上卿役
定勅使祭主兼府中村南松崎八幡別宮 北 惣社も厳島と同様
定勅使祭主を明治5年(1872)まで世襲した。
田所明神社は、最後の正三位上厳島神社両度
初申の御神事定勅使
国府上卿役祭主でのちの多家神社社司(宮司)田所元善(
竹槌)により、大正5 年(1916)11 月、
厳島遙拝所「国庁神社・
槻瀬明神」と大黒社の三社の御祭神を
合祀され、
厳島国府上卿屋敷に、田所明神社として再建された。
大正8年(1919)秋、石井七郎末忠公は大正天皇より正五位を
追贈され、有志により、石井城址顕彰碑が建立された。
さらに、田所明神社は平成10年(1998)10月
厳島国府上卿屋敷の現在地に宮司田所恒之輔が自主再建した。宗教法人ではない単立神社である。