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国庁屋敷・厳島国府上卿屋敷・田所明神社・田所屋敷・阿岐国造家
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『広島縣史』第一編 地志133頁によると「国府 中古以来、国衙ありし所、当時音便にてコフといい、後世は国府と称したり。安芸国府は、今の安芸郡府中村なり、国庁屋敷と呼ぶ地あり、往時の在庁田所家の裔、多家神社社司田所竹槌の現住地即是なり。」(国庁屋敷・田所屋敷)
『国史大事典』第5巻676頁によると「国府 国庁とは律令制のもとで、国司が政務をとる官庁を国庁という。その所在地として計画的に設定された地方都市を国府とする。」
『国史大辞典』第1巻91頁によると、「安芸国の国衙は安芸郡府中町に国庁屋敷と呼ばれる区画があるのが、その遺跡と思われ、その東方に惣社と呼ぶ神祠が明治4 年(1871) まで鎮座した。」明治4年(1871)は誤り、正しくは(1)明治5 年(1872)である。
注(1)正しくは、「天湯津彦命と安芸国府の歴史」71頁 最後の厳島神社定勅使祭主田所元善竹槌履歴書に「明治5 年(1872)を最後に初申神事厳島神社旧神職一同廃止セラル」とある。
『広島縣史』第二編 社寺志 神社 四六頁によると
上卿二員 一は安芸郡府中村に居る、伝え云う、古は年々朝廷より奉幣使ありしか、小松天皇[正しくは後小松天皇]の朝、石井[田所石井兵衛尉]在俊を以て定勅使に補せられると、(子孫田所氏を称す)、一は厳島に居る。一に神主代と称す、もと神主は常に桜尾城に居れるが故に、風波の時、祭祀を闕かんことを恐れて代理員を置けるなり。(三宅氏後に林氏に改む)
『田所累系』によると「被レ定二厳島上卿役一御証文拝載ス、御装束(正三位上定勅使祭主)モ拝載ス」とある。田所石井兵衛尉在俊は至徳2 年(1387)10 月1 日厳島上卿役・定勅使祭主に補せられる。明治五年まで田所氏が世襲した。厳島上卿役定勅使祭主の屋敷を厳島国府上卿屋敷という。
『府中田所鎮守社(厳島国府上卿屋敷神殿)田所家文書』四に、宮島奉行・青木猪助(寬正9 年から文化11 年)厳島祭主府中村田所伊織(元俊)殿の文字がある。
『五日市町史』上巻七節 や『藝州府中荘誌』によると、田所氏は、安芸国第一の旧家で、今の広島市佐伯区三宅町の田所屋敷跡に住み、譜代の佐伯郡司を務めていた。本姓は佐伯で、阿岐国造の後裔と伝えられる。安芸国の有力在庁官人の中に、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて大きな勢力をもっていた田所氏がいる。この田所氏の先祖は国司の遙任が多くなってから国府に入り在庁官人になった。『国史大辞典』第9巻236頁によると、田所は、「平安時代以後国衙におかれた在庁所の一つ。・・・・・・国衙の在庁所の種類として健児所・検非違使・田所・出納所・調所・細工所等々の名称をあげている。田所はこうした分課的在庁所の内でも、土地関係の職掌を主としたものである。各国衙の行政分野にあって、田所の関与する検田は重要であった。検田については郡規模で郡検田所が設置されており、・・・・・・所料田の確認申請があると国司はその申請文書を国衙田所の調査に付す。田所では国衙の検田帳(馬上帳)や国図(基準国図)と照合し朱書で国司に勘合注申する。この田所による坪付・田積の朱注の結果を「丹勘」と呼ぶ。不輸免田を国衙に認定してもらう際、田所が作成するこの勘文は極めて重要であった。田所を構成する官人の肩書は目代・惣判官代・書生など様々であるが田所の責任者は有力な在庁官人が任せられたため、田所職の名称に見るように家職として世襲される場合もあった。・・・・・・」田所とは在庁の行政事務のうち、主として土地関係書類を管理する一つの部門(所)であったが、田所氏が有力在庁官人となって田所執事職や惣判官代の
職を世襲するようになり田所氏と称するようになった。田所信高は厳島神社初申神事の奉幣使を勤め、田所石井兵衛尉在俊は至徳2 年(1387)10 月1 日厳島上卿役定勅使祭主に補せられる。明治五年まで田所氏が世襲した。厳島上卿役定勅使祭主の屋敷を厳島国府上卿屋敷 ともいう。
『国史大辞典』第2巻、841頁によると「国造は古代の地方豪族で伴造に対応する氏姓時代の地方官。」(1)『先代旧事本紀』「現代語訳」巻10国造本紀、587頁によると、「国造氏族は佐伯氏と伝えられ、厳島神社の神主となって以来、代々世襲してきた。田所明神社の田所氏も国造佐伯氏の後裔とされる。速谷神社は飽速玉命(飽速玉男命)を祭る。東広島市西条の三ッ城古墳は国造氏族の墓とされる。(2)」
注(1)『国史大辞典』第2巻841頁
注(2)『先代旧事本紀』「現代語訳」587頁 『西條町誌』42頁
国立公文書館内閣文庫『
楓軒文書纂』安芸厳島神社
定勅使祭主田所元教主税家文書所収
国立公文書館内閣文庫『
楓軒文書纂』安芸厳島神社
定勅使祭主田所元俊伊織家文書所収
広島県重要文化財紙本墨書『田所文書』(
安芸国衙領注進状一巻・
沙弥譲状一巻)所蔵
阿岐国造家の田所氏(本姓佐伯)は、
天湯津彦命五世の孫
阿岐国造・
飽速玉命の後裔である。律令制において、今の広島市佐伯区三宅町の田所屋敷跡にて譜代の佐伯郡司を世襲した。『国史大辞典』第1巻91頁によると、
安芸国の国衙は安芸郡府中町に国庁屋敷と呼ばれる区画があるのが、その遺跡と思われ、その東方に
惣社と呼ぶ
神祠が明治4年(1871)まで鎮座した。明治4年(1871)は誤り、正しくは
(1)明治五年(1872)である。『国史大辞典』第14巻688頁によると、留守所は古代末期から中世前期にかけて諸国の国衙に置かれた行政機関。国司の代官である目代が在庁官人を指揮して国の行政を行うようになった。『国史大辞典』第14巻345頁によると、
遙任といって、令制の地方官に任命されながら、赴任執務するのを免除されること。『国史大辞典』第9巻236頁によると、田所とは、平安時代以後、国衙に置かれた在庁所の一つ。田所を構成する官人の肩書きは目代・
惣大判官代や
書生職など、有力な在庁官人にまかせられたため、「
田所職」の名称にあるように家職として世襲される場合もあった。
国衙田所は、国司に
国図と照合し、
朱書で国司に
勘合注申する。田所による
坪付(
田積)の
朱注作業の結果を田所「
丹勘」と呼ぶ。社寺など
不輸免田を国衙に認定してもらう際、田所が作成する
勘文は、極めて重要であった。
昌泰3年(900)頃、田所(佐伯)
資隆は、朝廷より
佐西四度使・田所
執事職の免状を賜り、今の広島市佐伯区三宅町の田所屋敷跡より安芸国庁屋敷に赴任した。その後田所氏は在庁官人を世襲した。安芸国では、万寿4年(1027)頃から田所氏は田所
信職の時代以降、
惣判官代等の有力在庁官人を世襲した。『田所文書』に数10町歩の所領、数10人に及ぶ所従など、在庁官人田所氏の財産の注文が記されている。
在庁屋敷(
国庁屋敷)合計2丁6反。
厳島遙拝所(
国庁神社 ・
槻瀬明神(2)」は国庁屋敷に社を設け、庁員一同、朝夕礼拝した。『田所文書』に国庁社(国庁神社)造立免、合計1丁5反。国司は「国司庁宣」により目代の派遣を告げ目代と在庁官人の連署の「留守所
下文」により国内統治機能を果たした。田所の責任者は有力な在庁官人が任せられたため安芸国では、
田所職の名称にあるように
家職として世襲された。
治承3年(1179)より厳島神社・
惣社・松崎別宮の
初申神事が朝廷より奉幣使を迎えて行われ、後に田所氏が安芸国の
国祭(3)として、奉幣使その後、定勅使祭主を明治5年(1872)まで世襲した。
厳島国府上卿屋敷の
厳島遙拝所は奉幣使と定勅使祭主の神殿である。田所明神社は、最後の正三位上厳島神社両度
初申の御神事定勅使
国府上卿役祭主兼府中村南八幡別宮北
惣社も厳島と同様定勅使祭主で、後の多家神社(
埃宮)社司(宮司)田所元善(
竹槌)により、大正5年(1916)11月、
厳島遙拝所「
国庁神社・
槻瀬明神」と大黒社の三社の御祭神を合祀され、
厳島国府上卿屋敷に、田所明神社として再建された。さらに、田所明神社は平成10 年(1998)10 月
厳島国府上卿屋敷の現在地に宮司田所恒之輔が自主再建した。宗教法人ではない単立神社である。田所家は安芸国第一の旧家である。
- 注(1)正しくは、「天湯津彦命と安藝国府の歴史」71頁に、最後の厳島上卿役定勅使祭主田所元善竹槌履歴書に「明治5年(1872)を最後に初申神事厳島神社旧神職一同廃止セラル」とある。
- 注(2) 槻瀬明神の神階は、『芸藩通志』名神考巻2、532頁によると、安芸国神名帳に 槻瀬明神は正二位五前の位階とある。「田所氏の宅後に神石あり、つきのかみと称して、毎年正月三日、十二月晦日、燈を献じて之を祭る」
- 注(3)国祭とは『国史大辞典』第5巻631頁によると、「官祭に対して国司が主となって執行する祭儀としての(国祭)が見られる。」